幻の谷川岳

 グキッツ。

 何だか鈍い音がして右肩に衝撃が走った。

(あれ、ひねったかな?)

 そう思いながらも、俺はそのまま右腕に重心をかけて一気に体を引き上げようとした。

 谷川岳南稜第1ピッチ終了点付近、チムニーの内部に入りすぎてしまい、右へ抜けようとしたところだった。

 ビグッツ。

 今度は音はしなかったが、さっきよりも強い衝撃が肩から腕に響いた。

 思わず岩から手をはなし、両足で安定できる位置まで戻る。

 (あれ、どうしたんだろう?)

 しばらくは何が起こったのか分からなかった。

(捻挫しちゃったかな。だったらこの後の行程が辛くなるな)

 ところが、右腕はだらんと下がったまま思うままにならない。

 (やばい)

 血の気が引いていくのが自分でもよく分かった。

 (脱臼、か?)

 そう思っているうちに、強烈な痛みを感じ始めた。

(痛い。アレ?マジで痛い!)

 「オーイ!」

 南綾テラスで順番を待っていた皆に声をかける。

 「やばいよ。腕が動かなくなっちゃった!」

 「!!」

 一瞬、皆が硬直したのを感じる。

 「どうした?大丈夫か?」

 すでに登り始めていた山本さんが下から声をかけてくれる。

 「いや、だめみたい」

 こういうときに強がりを言ってもしょうがない。やたらと俺は正直になった。

 「ビレイとれるか?」

 事情を察した山本さんがこっちに向かって来てくれる。自らビレイをとろうとするが、右腕が痛くて体をひねれない。足場はしっかりしているものの、最後のランニングビレイは2メートル位下にあり、やはり不安だ。

 やがて山本さんが到着してビレイをとってくれる。そしてそのまま確保点まで上がり、上からザイルで確保できるように準備を始めた。

 今度は原さんが上がってきてくれる。

「どうした?大丈夫か?」

「脱臼しちゃったみたいで...」

「動けるか?」

「....」

 体の向きを変えてようとするが、強烈な痛みが走って動けない。

 何だかボーっとしてくる。気がつくと、原さんの背中にしがみついてテラスまで降りようとしている。上からは山本さんが確保してくれている。ザックと原さんの背中の間に挟まれたような格好だ。救助の方法の一つだと原さんが説明してくれる。自分みたいに重たいのがおんぶして、原さん大丈夫かな、と思っているうちに下に着いた。

 岩の上に横になり、少しでも痛みが和らぐ位置をさがすが、どこをどうしても痛い。とにかく痛い。この日のザイルパートナー(になるはずだった)古高さんが、何とか痛みが収まるようにと、シュリンゲを使って腕を吊ってくれる。

「寒くない?何か着た方がいいんじゃない?」

 三浦さんが気をつかってくれる。

「お湯だけど少し飲む?」

 中川さんがテルモスからお湯を飲ませてくれる。そういえば、自分でも意外なほど喉が乾いている。

(たいへんなことになっちまった)

「ちきしょう、痛てぇよ」とわめきながら、俺はそう思っていた。

 南綾テラスからはテールリッジがまっすぐ見える。そのはるか向こうには駐車場が見える。テントも見える。よく見える。しかし、あまりにも遠い。

(こんなに痛いのに、あんなところまで降りれるのだろうか?)

(このまま、動けなくなってしまうのだろうか?)

 谷川の空はやけに青く、なんだか夢をみているような気がする。

(そうだこれは悪夢にちがいない。エィっと目を醒ませばきっとテントの中で寝違えたかなんかしているんだ)

 そう思って眠りからさめようとするが、何もかわらない。

(だめだ。これは現実なんだ)

 もうだめだ、とあきらめかけたのを察したのか、古高さんが渇を入れてくれる。

「痛いかもしれないけど、とにかく我慢しろ。下までいかなくちゃしょうがないんだから。駐車場まで降りればすぐに車で医者へ連れてってやるから」

 原さんがそれぞれに指示を出し始める。ザイルで確保しながら降りていく作戦らしい。

(やるしかないか)

 俺は、もう一度テールリッジ越しに駐車場を見極め、そう決心した。

 降りるしかないのだ。

 側には仁さんがついてくれ、自分が確保してもらって降りる間に、他の皆がザイルを持って次のビレイポイントを探しに下っていく。これを繰り返していく。

「のろのろするな!」

「ザイルをだせ!」

原さんの明確な指示に、女性陣がテキパキと応じているのがわかる。

(あぁ、悪いことしたなぁ)

 何だか急に罪悪感が襲ってくる。天気は最高。皆、この日を楽しみにしていたはずだ。谷口さん、三浦さん、中川さん、それに何と仁さんにとっても、この日は谷川初登頂の日だったのだ。

「ごめんね、仁さん」

「いいんだよ」

 横についてくれている仁さんの優しさをいつもの数倍以上に感じる。

 段差のある岩場を降りる度に、確保のザイルが少しでも緩むたびに、表現できないような痛みがやってくる。思わず声をだしてしまう。息もだんだん荒くなってくる。

(どうして、こんなに痛いんだろう?)

(いっそのこと腕がポロッツととれてしまえばいいのに)

「喉かわいてない?」

「(腕を吊っている)シュリンゲきつくない?」

「大丈夫か?」

 皆が入れ替わり立ち替わり声をかけてくれる。

 何人かは残って登頂してよ、とも思ったが、口に出すまでの余裕は残念ながらなかった。

 そのうち、テールリッジの中間部あたりから、だんだんと言葉で応えるのが難しくなってきた。痛みのために背中を曲げ、前屈みになる。右腕を吊ったシュリンゲを首で止めているので、だんだん首の裏の方も痛くなってくる。

 立ち止まっていると、脚が微妙に震えているのが分かる。頭がボーっとしてきて、一瞬意識がなくなるような気がする。

(ショック症状って、こんなんじゃなかったっけ)

 やばいと思って深呼吸をする。意識的に呼吸をしていないと呼吸が止まってしまうのでは、という強迫観念に襲われる。

「飴、たべるか?」

 仁さんが、飴玉を口に入れてくれる。飴をなめていると意識が少し戻って来るような気持ちがした。

「仁さん、アメ」

 ボーっとしてくる度に、仁さんに飴を頼んだ。口に入れ、今度はなめずに噛み砕いてしまう。とにかく何かしていないと気を失いそうで不安だった。仁さんに、休むことなく飴を頼んだ。すぐに、仁さんの手持ちの飴を全部食べてしまったらしく、仁さんが谷口さんに飴をもらっているようだった。

(あれ?)

テールリッジが終わるあたりでハッとした。

(そういえば、一カ所、登りがあるじゃないか。いったい、どうするんだろう)

 テールリッジの付け根には滝を高巻く道から降りてくる急傾斜がある。登りでは懸垂で降りる人も多いくらいの、急な、30メートルくらいはありそうな傾斜である。

「いや、もちろん、あんなところは行けない。滝を降りる」

 原さんがそう言う。

(滝を降りるのか...)

 思えば、前回初めて谷川に来たときに池ちゃんが降りたがっていたルートである。あのときは山本さんが危ないからと判断していかなかった。

 普段だったら。エッと思うところだろうが、この時はとにかく一歩でも下へ降りること以外に頭はなかった。

 テールリッジを今度は下から見上げてみる。南綾テラスも見える。

(あそこから降りてきたんだもんな)

(ずいぶん降りたじゃないか)

(とにかく一歩一歩頑張ろう)

 滝を降りて少し休んでいたあたりで、頭上をヘリコプターが何回も飛んでいた。

(自分のために来てくれたのかな)

(誰が連絡してくれたんだろう?)

(ヘリに乗ったらニュースになっちゃうな)

 とりとめのないことを考え始める。

 何だか、痛みを感じている自分と、それを見ている自分とが別々に感じられてくる。

(このまま2人が別々になれば、自分は痛みを感じなくても済むのにな)

(痛みを超越するって、こういうことかな)

 ぼんやりと考えていると、中川さんがアンズか何かを口に入れてくれた。

「もう少しよ」と言ってくれる。

 河原に着いて歩きだすと、駐車場付近に徘徊している観光客のことを思い出した。

「カメラの列が待っているんじゃないか?」

 山本さんが冗談混じりに言う。

(こんな格好は誰にも見せたくない)

 こんな時になって変な自尊心が頭をもたげる。

 それまで前屈みで歩いていたのを、痛みを我慢して背中を伸ばして歩くようにする。

 観光客がこっちを見ている。ジロジロ見ているおばさんもいれば、すぐに目をそらすカップルもいる。早く通り過ぎようとペースをあげる。

 ようやく駐車場に着く。谷口さんと三浦さんが靴とハーネスを脱がせてくる。山本さんと谷口さんが病院へ同行してくれることになった。

 皆に、ありがとうという。言った途端、何だか、申し訳なくて、情けなくて、ありがたくて、うれしくて、目頭が熱くなった。車の中へと倒れ込む。今はとにかく、この観光客でざわざわした場所から一刻でもいいから早く立ち去りたかった。

 駐車場からの道は混んでいてなかなか進まなかった。助手席を倒して横になるが、痛みはちっとも和らがない。ダッシュボードにはなぜかカリントウが置いてあり、谷口さんが食べさせてくれる。

かりんとうを食べているうちに、だんだん気持ちが落ちついてくる。が、それと同時に、俺は悔しさを感じ始めていた。

(せっかく初めて本番でリードをするチャンスだったのに)

(これを楽しみにずっと練習していたのに)

(せっかく山賢さんが、リードさせてくれたのに)

 悔しさと情けなさで、また胸があつくなる。助手席の窓から外を見る。

「来週くらいが紅葉の本番ですかね」

 谷口さんと山本さんの会話が聞こえてくる。確かに谷川の緑は、少しずつ色づいてきている。

(くそ。早くよくなって、また来るぞ。今度こそ登るぞ)

そう思いながら、俺はだんだんと気が遠くなっていった。